要約

  • 日経平均株価は1989年12月29日に38,915.87円で取引を終え、この水準を上回るまでに34年2か月を要した。
  • その長い停滞期、日本企業のROEは国際的に見て低い水準にとどまった。伊藤レポートは、その原因を景気や人口動態だけに求めず、企業の資本配分とガバナンスの問題として示した。
  • 同レポートが掲げた「最低限8%を上回るROE」は、企業と投資家が資本効率を議論する際の共通の出発点となった。

1989年の高値を回復するまでの34年

1989年12月29日、日経平均株価は38,915.87円、TOPIXは2,881.37で取引を終えた。その後、両指数は30年以上にわたり、この水準を下回った。日経平均が1989年末の終値を上回ったのは2024年2月である。TOPIXも同じ頃、ようやく当時の高値に近づいた。

1990年代には、株価低迷の主因としてバブル崩壊、不良債権問題、デフレが挙げられた。2000年代に入ると、生産年齢人口の減少など人口動態を重視する見方が強まった。いずれも重要な要因だが、共通する限界があった。日本企業の業績や資本配分が市場評価にどう影響したかではなく、企業を取り巻く外部環境を中心に説明していたことである。

第二次安倍政権が発足した2012年末頃から、経済産業省では別の問題意識が明確になっていった。日本株の収益率が低い背景には、日本企業の資本効率の低さがある。資金がバランスシートに積み上がり、十分な収益を生まない事業や投資に回り、株式持ち合いや社内出身者中心の取締役会によって外部からの規律も働きにくい。こうした診断に立てば、必要なのは金融政策や人口政策だけではなく、企業統治と資本配分の改革となる。

数字で見るROEギャップ

2014年当時、国際比較からは日本企業の収益性の低さがはっきりと見えていた。

地域 平均ROE(2004–2013) 平均ROIC(McKinsey) 外国人株式保有比率(2014)
日本 5%未満 約8% 約30%
米国 14–15% 約21% n/a
欧州(Stoxx 600) 10–11% 約15% n/a

出所:経済産業省『伊藤レポート』§1、§3(2014);McKinsey & Co., Closing Japan's valuation gap by changing corporate traditions。

伊藤レポートが浮き彫りにした問題は、大きく二つある。

  1. 資本コストに対する認識が弱かったこと。 「自社の資本コストを意識している」と答えた上場企業は約40%にとどまり、実際に開示している企業は10%未満だった。資本コストを把握しなければ、投資や事業継続の採算を同じ基準で比較することはできない。
  2. 社内管理と投資家向け説明が分断されていたこと。 海外投資家にはROEや株主価値を説明する一方、社内では売上高、営業利益、人員など別の指標で経営を管理する。両者を結ぶ論理がなければ、資本市場向けの説明は経営の実態と離れてしまう。

「日本企業のROEは5%を下回ってきた。にもかかわらず、資本コストはそれを大きく上回っている。これは構造的な問題である。」 ― 経済産業省『持続的成長への競争力とインセンティブ ― 企業と投資家の望ましい関係構築 プロジェクト最終報告書(伊藤レポート)』(2014年8月)

伊藤邦雄氏が示した問題意識も、同じ点にあった。日本企業は優れた技術、特許、人材、世界市場での地位を持ちながら、それらを資本コストを上回る収益に十分結びつけられていない。伊藤レポートが示したのは、この技術力と収益性の隔たりである。

なぜ「8%」だったのか

伊藤レポートは、8%を恣意的に決めたわけではない。プロジェクトでは2013~2014年にグローバル投資家を調査し、日本株に求める資本コストを確認した。その回答は7%前後に集中しており、調査対象となった投資家の約9割が想定する資本コストを上回る目安として、ROE8%が示された。

レポートの代表的な一節は、次のとおりである。

「グローバルな投資家から認められるにはまずは第一ステップとして、最低限8%を上回るROEを達成することに各企業はコミットすべきである。」 ― 伊藤レポート §1.3

ここで押さえるべき点は三つある。

  • 8%は最終目標ではなく、最初に超えるべき目安である。 業種や事業特性によっては、より高い水準が求められる。
  • 基準の相手はグローバル投資家である。 国内平均との比較ではなく、国際的な資本市場で投資対象として認められるかどうかが出発点となっている。
  • 一時的な達成ではなく、経営としての約束を求めている。 好況期に偶然8%を超えるのではなく、継続的に資本コストを上回る経営を行うという意味である。

この基準は、その後の政策や市場実務に広く浸透した。スチュワードシップ・コードを受け入れた機関投資家の対話、コーポレートガバナンス・コードに基づく開示、GPIFの運用受託機関に対する評価、証券会社の企業分析、そして2023年3月の東証要請まで、資本効率を考える際の共通の物差しとして使われてきた。

改革を後押しした二つの変化

ROEの低さ自体は、伊藤レポートの公表よりはるか以前から続いていた。それでも2013~2014年に問題意識が政策として定着したのは、株主構成と企業監督の仕組みが大きく変わっていたためである。

第一は、外国人投資家の存在感が高まったことである。1980年代初頭にはわずかだった外国人の株式保有比率は、2014年までに約30%に上昇した。日々の売買代金でも外国人投資家の比重が高まり、日本株の価格形成は国際的な投資基準の影響を強く受けるようになった。国内平均と比べて「まずまず」であることよりも、海外企業と比べて十分な収益性があるかが問われ始めた。

第二は、メインバンクによる監督が弱まったことである。上場株式に占める銀行の保有比率は、1980年代の20%超から2014年には5%未満へ低下した。かつて銀行は、株主、貸し手、経営監視者という三つの役割を担っていた。銀行が株式を手放し、融資関係も変化するなかで、その監督機能を誰が引き継ぐのかが新たな課題となった。

コラム ― なぜ社内からは問題が見えにくかったのか。 大手製造業では、2000年代を通じて営業利益率が改善し、ネット有利子負債も減少したため、経営者には財務体質が良くなっているように見えた。ところが、利益の増加以上に内部留保が積み上がれば、ROEの分母である自己資本が膨らむ。利益率が改善していても、自己資本の増加がそれを上回ればROEは上がらない。ROE8%という基準と、その後の資本コスト開示は、この問題を見える形にした。

数字が議論を変えた

伊藤レポート以前、ROE6%の企業は「日本企業の平均並み」と説明することができた。公表後は、同じ6%でも、経済産業省が示した8%に届かない理由を説明する必要が生じた。海外投資家だけが使う評価軸ではなく、日本の産業政策当局が示した基準になったことで、経営課題として扱われる重みが増したのである。

発行主体が経済産業省だったことにも意味がある。製造業を中心とする日本企業にとって、経済産業省は産業政策を担う身近な官庁である。その経済産業省が資本効率を企業競争力の問題として取り上げたことで、ROEをIR部門だけの論点として片づけることは難しくなった。

その後の主な広がりは、次の三つに整理できる。

  1. 2015年のコーポレートガバナンス・コードは、資本を有効に活用し、中長期的な企業価値を高めることを上場会社に求めた。
  2. GPIFのスチュワードシップ活動は、外部運用機関に対し、投資先企業の資本効率について対話することを促した。ROE8%は、その対話で繰り返し参照される水準となった。
  3. 2023年3月の東証要請は、資本コストと資本収益性を取締役会で分析し、改善策を開示・実行することをプライム・スタンダード市場の上場会社に求めた。伊藤レポートが示した問題意識が、各社の継続的な経営課題として具体化された。

2014年の伊藤レポートから2023年の東証要請まで、改革の中心にある問いは一貫している。企業は、預かった資本から、その資本に求められる以上の収益を生み出しているか。ROE8%は、その問いを経営者と投資家が共有するための最初の基準となった。

IR担当が押さえるべき含意

  1. 8%を一律の最終目標にしない。 伊藤レポートが示したのは「最低限8%を上回る」ことである。中期経営計画で8%前後を目標にする場合は、自社の株主資本コストとの関係や、なぜその水準が妥当なのかを説明する。
  2. 資本コストの算定根拠を示す。 数値だけでなく、使用した前提や投資家との認識差も説明する。資本コストを開示しないままROE目標だけを掲げても、価値を創造できる水準かどうかは判断できない。
  3. 社内KPIと株主価値をつなぐ。 営業利益率、人員生産性、セグメント利益などの日常的な管理指標が、ROEやROICを通じて企業価値にどう結びつくかを示す。
  4. ROEを要因分解して説明する。 目標未達の理由は、純利益率、総資産回転率、財務レバレッジに分けて示す。投資家が求めているのは数値の弁明ではなく、原因の把握と改善策である。
  5. 資本配分の判断基準を明確にする。 設備投資、M&A、配当、自社株買いについて、それぞれの期待収益率と資本コストとの関係を説明する。

出典・参考資料


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