要点
- 東証は2024年11月21日、「投資者の目線とギャップのある事例」を公表した。対象は、①分析・評価、②取組みの検討・開示、③対話・アップデートの3段階に分かれる計10項目である。
- 問題は、数字が少ないことだけではない。自社の見方だけで現状を評価する、目指すバランスシートを決めない、施策を列挙するだけで因果関係を示さない、投資家との対話を次の判断に反映しない、といった一連の弱さが問われている。
- 以下の「7つの落とし穴」は、本講座が東証の10項目を実務上の点検順序に沿って再整理したものである。東証自身が7分類を示しているわけではない。
「好事例をまねる」前に、ずれを点検する
好事例集は、完成度の高い開示がどのような姿かを知るうえで役に立つ。しかし、他社の指標や図表をそのまま移しても、自社の課題と結びついていなければ説得力は生まれない。先に行うべきなのは、自社の分析や説明が投資家の問題意識とどこでずれているかを見つけることである。
東証の資料は、この点検を3段階で行う。
- 分析・評価――資本コスト、資本収益性、市場評価、バランスシートをどう捉えているか。
- 取組みの検討・開示――課題に対して、目標、資本配分、事業ポートフォリオ、役員報酬をどう設計し、どう説明しているか。
- 対話・アップデート――投資家との対話に応じ、その内容を開示や施策の見直しに反映しているか。
2025年12月に改訂されたポイント・事例集は、国内外の延べ400社超の投資家との意見交換を踏まえている。したがって、ここに挙げられた論点は、抽象的な模範論ではなく、投資家が実際の開示を読んだときに感じる違和感を整理したものと考えるのがよい。
7つの落とし穴
| # | 落とし穴 | 開示に表れやすい兆候 | 見直すべき方向 |
|---|---|---|---|
| 1 | 自社の物差しだけで現状を評価する | 同業平均を上回っていることだけで十分と判断する。株主資本コストの根拠や市場評価とのずれを検討していない。 | 投資家との対話、事業リスク、株主構成、市場で求められる収益率も踏まえ、複数の角度から現状を評価する。 |
| 2 | PBRやROEの表面だけを見る | PBR1倍割れやROE低迷を指摘するだけで、収益性、成長期待、資産効率、情報の非対称性などの要因を分解していない。 | ROE、ROIC、利益率、資産回転率、事業別採算、市場との認識差まで掘り下げる。 |
| 3 | 目指すバランスシートと資本配分を決めない | 現預金、政策保有株式、有利子負債、成長投資、株主還元を個別に説明するだけで、全体としてどの姿を目指すかが見えない。 | 必要資金、リスク耐性、投資機会、負債余力を踏まえ、目指す資本構成と資金配分の優先順位を示す。 |
| 4 | 目標を先に置き、課題とのつながりを示さない | 「ROE10%」「PBR1倍超」などの数字はあるが、なぜその水準なのか、何を変えて達成するのかが分からない。 | 現状分析から目標までの論理をつなぎ、利益率、資産効率、事業構成、資本政策などの具体策に分解する。 |
| 5 | 不採算事業と経営者の動機付けに踏み込まない | すべての事業を成長させる前提で、不採算事業の縮小・撤退・売却を検討していない。役員報酬も単年度業績に偏る。 | 事業ごとの資本収益性を点検し、再建・追加投資・売却・撤退を判断する。報酬制度も中長期の企業価値と整合させる。 |
| 6 | 施策を並べるだけで、因果関係を示さない | DX、人的資本、M&A、自社株買いなどを列挙するが、どの課題をどう改善し、どの指標に効くのかが示されない。 | 「課題→施策→KPI→期待する効果→検証時期」の順で説明する。 |
| 7 | 対話を実施しても、経営判断を更新しない | 面談回数だけを開示する、合理的な理由なく対話を断る、対話で得た論点を翌年の計画や開示に反映しない。 | 対話で寄せられた主な論点、取締役会での検討、変更した施策や見送った理由まで開示する。 |
落とし穴1――自社の物差しだけで現状を評価する
資本コストは、会社が都合よく決める社内基準ではない。事業リスクや市場環境を踏まえ、資金提供者が求める収益率を会社側が推定するものである。このため、算定式を示しただけでは十分とは限らない。投資家が認識する水準と大きく異なる場合には、なぜ差が生じるのかを説明する必要がある。
また、同業平均を上回っていることも、それだけでは結論にならない。投資家は業種内だけでなく、他業種や海外企業も含めて投資先を選ぶ。業界全体の収益性が低ければ、「同業並み」は資本コストを上回る根拠にならない。
開示では、資本コストの数値またはレンジに加え、主な前提、投資家との対話で得た認識、自社が考える市場評価とのずれを示すとよい。東証は一律の正解値を示していない。重要なのは、会社の推定が検証可能であり、投資家の見方と向き合っていることである。
落とし穴2――PBRやROEの表面だけを見る
PBR1倍割れを確認して「市場評価が低い」と書くだけでは、分析とはいえない。ROEが資本コストを下回っているのか、成長の持続性に疑問を持たれているのか、過剰資産が収益性を押し下げているのか、事業内容が伝わっていないのかによって、必要な対応は異なる。
ROE目標も同じである。たとえば、次の分解を使えば、どの経営課題を動かす必要があるかが見える。
ROE = 売上高純利益率 × 総資産回転率 × 財務レバレッジ
事業別にはROICとWACCの比較が有効である。会社全体のROEが改善していても、資本コストを下回る事業が残っていれば、ポートフォリオの課題は解消していない。市場評価の説明では、数字の水準よりも、数字を生んでいる構造を示すことが重要になる。
落とし穴3――目指すバランスシートを決めない
現預金を多く持つ理由、政策保有株式を残す理由、有利子負債を増やさない理由を個別に説明しても、それらを合計したバランスシートが会社の戦略に適しているかは分からない。投資家が知りたいのは、事業リスクと成長機会を踏まえた必要資金の水準、そのうえで余剰となる資金をどこに配分するかである。
自社株買いや増配は、分析の結果として適切な場合がある。ただし、それだけを東証要請への回答にすると、事業の競争力や将来の利益成長をどう高めるかが抜け落ちる。研究開発、人的資本、設備投資、M&A、負債返済、株主還元を同じ表の中で比較し、優先順位と判断基準を示す必要がある。
落とし穴4――目標を先に置き、達成経路を示さない
「2027年度にROE10%」「PBR1倍以上」といった数値だけでは、投資家は計画の実現性を判断できない。PBRは市場が付ける評価であり、経営陣が直接決められる指標ではない。ROEも、利益率の改善、資産の圧縮、財務レバレッジの変更では意味が異なる。
目標は、現状分析から導かれていなければならない。たとえば、低採算事業の再編で利益率を上げるのか、運転資本を減らして資産回転率を高めるのか、余剰資本を返すのかを分けて示す。各施策に期限と責任主体を置き、実績が計画から外れたときの見直し方針まで示せば、目標は単なる宣言から経営管理の道具に変わる。
落とし穴5――不採算事業と役員報酬に踏み込まない
資本効率を高めるうえで最も難しいのは、利益が出ていない事業をどう扱うかである。改善の余地があるなら再建し、より適した保有者がいるなら売却し、将来も資本コストを上回る見通しが立たないなら撤退する。すべての事業を維持したまま全体目標だけを掲げても、経営資源の配分は変わらない。
同時に、経営陣の評価制度も確認が必要である。単年度の売上高や営業利益だけに連動する報酬は、資産を積み増して規模を拡大する動機になりやすい。ROIC、ROE、TSR、事業ポートフォリオの進捗などを中長期の報酬にどう反映するかを示せば、計画を実行する仕組みまで説明できる。
落とし穴6――施策を並べるだけで終える
次のような文章は、一見すると取組みが多い。しかし、何を解決するのかが分からない。
「成長投資、DX、人的資本投資、M&A、株主還元を通じて企業価値を高めます。」
必要なのは施策の数ではなく、因果関係である。たとえば、「A事業の低い資産回転率がROICを押し下げているため、在庫日数をX日からY日に短縮し、2027年度までにROICをZ%へ引き上げる」と書けば、課題、行動、指標、期限が一続きになる。
中期経営計画を東証要請への回答として使うこと自体に問題はない。ただし、中計の既存ページを示すだけではなく、資本コストとの関係、取締役会の分析、投資家との対話を踏まえた見直しが読み取れるようにする必要がある。
落とし穴7――対話が経営判断につながらない
面談回数や参加者数を開示しても、対話の成果は分からない。投資家がどの論点を提起し、経営陣や取締役会がどう検討し、何を変えたのかが重要である。
また、未公表の重要事実を伝えられないことと、投資家との対話そのものを断ることは別の問題である。合理的な理由なく面談に応じない、社外取締役への面談要請を一律に拒む、といった姿勢は、対話を重視するコードや東証要請の趣旨と合わない。
開示の更新では、前年から変わった箇所を明示するとよい。目標を変更したなら理由を示す。施策を見送ったなら、投資家の提案を検討したうえで見送った理由を説明する。対話に従うことではなく、対話を判断材料として使ったことを示すのが目的である。
90秒でできる自己点検
- 資本コストの根拠を、投資家との認識差も含めて説明できるか。
- PBR、ROE、ROICの水準を、事業や財務の要因に分解しているか。
- 目指すバランスシートと資金配分の優先順位が示されているか。
- 目標と具体策の間に、検証できる因果関係があるか。
- 資本コストを下回る事業について、再建・追加投資・売却・撤退の判断を示しているか。
- 施策の列挙ではなく、「課題→施策→KPI→期限」の順で説明しているか。
- 投資家との対話を受けて、開示または経営判断を更新した事例があるか。
一つでも答えに詰まる項目があれば、そこが次の改訂箇所である。点数を付けることより、取締役会で具体的な問いに置き換えることの方が重要だ。
IRにとっての含意
- 東証の10項目を公表前の確認表にする。 IR資料、中期経営計画、コーポレート・ガバナンス報告書を別々に点検せず、同じ論理で読めるかを確認する。
- 資本コストの数値だけを争点にしない。 数値の根拠、市場との認識差、その差をどう対話で検証したかまで一組で説明する。
- 取締役会の議論を開示につなげる。 IR部門だけで文章を整えるのではなく、分析、目標、事業ポートフォリオ、資本配分が取締役会の判断として承認されていることを確認する。
- 毎年、同じ文章を出さない。 実績、対話、環境変化を踏まえ、何を維持し、何を変えたかが分かる更新にする。
- 好事例は構成を学び、数字は借りない。 他社のWACCやROIC目標を移すのではなく、「課題から施策までをどうつないでいるか」を参考にする。
出典・参考資料
- 東京証券取引所「『資本コストや株価を意識した経営』に関する『投資者の目線とギャップのある事例』等の公表について」(2024年11月21日): https://www.jpx.co.jp/news/1020/20241121-01.html
- 東京証券取引所「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応(プライム・スタンダード市場)」: https://www.jpx.co.jp/equities/follow-up/02.html
- 東京証券取引所「『資本コストや株価を意識した経営』のポイントと事例のアップデートの概要」(2024年): https://www.jpx.co.jp/equities/follow-up/nlsgeu000006gevo-att/mklp77000000k4tq.pdf
- 東京証券取引所「『資本コストや株価を意識した経営』に関する『課題解決に向けた企業の取組み事例』等の公表について」(2025年12月26日): https://www.jpx.co.jp/news/1020/20251226-01.html
- 東京証券取引所「ポイント・事例集の使い方ガイド」(2025年): https://www.jpx.co.jp/equities/follow-up/jr4eth0000004vj2-att/t13vrt000000dlhw.pdf
- 東京証券取引所「『取組みの進展が見られる企業』等に関する機関投資家アンケートの結果について」(2026年8月12日): https://www.jpx.co.jp/corporate/news/news-releases/1020/20260812-01.html
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